文面から色々やさしさ、美しさが想像できました。
小学生の頃、道徳の授業で街のお年寄りに手紙を書いた。律儀に返事をくれてやりとりが続き…
どこに書こうか迷ったんだけど、ここで。
小学生の頃、道徳の授業で街のお年寄りに手紙を書いた。
返事はワードで縦書きに書かれた手紙だった。
他の子たちはその一回のやりとりで終わったみたいだったんだけど、私は続けて手紙を出した。
なぜと訊かれても分からないんだけど、なんとなくそうしたかったから。
お爺さんも律儀に返事をくれて、たまにエクセルで書いたドット絵とかを入れてくれてて、すごいなって思ってた。
そんなやりとりが続いて、運動会も見に来てくれた。だけど中学生にもなると部活や勉強で忙しくて手紙のやりとりも間が空くようになっていった。
中三になったころ、お爺さんから手紙が来た。
この時は受験勉強やらで忙しくてまだ返事を出していなかった。というより、お爺さんがくれた手紙(この手紙の前にくれたやつ)を開けてもいなかった。
手紙はお爺さんの奥さんからで、お爺さんが亡くなったことが書いてあった。もうずっと体調が悪かったらしい。
最後に頑張って書いていたから読んであげてほしいって書かれてた。入っていたもう一通の手紙はお爺さんからだった。
いつものワードじゃなくて、初めて見る直筆の文字は達筆だった。月に一度手紙をくれる若い文通友達ができてとても楽しかったって書いてあった。
それを見たらなんだか無性に悲しくなった。
私がお爺さんに手紙を出し続けたのはほんの気まぐれで、もし小学生のあの時に戻れても同じように手紙を書いたかは正直分からない。
中学生になって、友達付き合いやら部活やらで忙しくなってからは文通が億劫に思える時もあった。そんな自分が恥ずかしいのと、薄情に思えてとにかく申し訳なかった。
月並みだけど、これが最後だって分かってたらもっと書きたいことがあった。もっと小まめに返事を出したかった。
うまく言えないけど穏やかで優しい時間だったのに、最後の手紙は苦くて切ないものになってしまった。
結局私は、最後の手紙の前にくれた手紙を開けることができないまましまい込んでた。申し訳なさや後ろめたさみたいなものがあって、どうしても開けられなかった。
そのまま歳をとって、先週結婚した。実家を出ることになり掃除をしていたら、件の手紙が出て来た。
時間薬というのか、今度は手紙を開けることが出来た。
久しぶりに見るワードで書かれた手紙には勉強が大変だろうけど頑張るんだよとか、暑いけど体調に気をつけてとか、優しい言葉がたくさんあった。それからエクセルで書いた、合格祈願のイラストがついていた。
それを見て、もっと早くに開けるべきだったと心底思った。
高校受験、大学受験、就職、結婚…沢山の岐路が人生にはありますが、私はいつでも応援しています。って書かれた文字を見て、お爺さんのことを思い出した。手紙は月一程度で、年に一度お会いするかどうかの関係だったけれど、お爺さんに出会えてよかった。
お爺さん、あの時ちゃんと高校合格したよ。
私、結婚するよ。
手紙をいつもありがとう。
もう言う相手がいないから書き捨て。