新潟県長岡市が岡山県高梁市を支援。
受けた恩を忘れない。「ずっとこういう日本でいて欲しい」
方谷が説く「理財論」および「擬対策」の実践で、藩政改革を成功させた。
理財論は方谷の経済論。漢の時代の董仲舒の言葉である「義を明らかにして利を計らず」の考え方で、改革を進めた。つまり、綱紀を整え、政令を明らかにするのが義であるが、その義をあきらかにせずに利である飢餓を逃れようと事の内に立った改革では成果はあげられない。その場しのぎの飢餓対策を進めるのではなく、事の外に立って義と利の分別をつけていけば、おのずと道は開け飢餓する者はいなくなることを説いた。(広く天下を制する者は、事の外に立ちて事の内に屈さず。)
擬対策は方谷の政治論。天下の士風が衰え、賄賂が公然と行われたり度をこえて贅沢なことが、財政を圧迫する要因になっているのでこれらを改めることを説いた。
この方針に基づいて方谷は大胆な藩政改革を行った。
安政6年(1859年)正月、河井継之助は再び江戸に遊学し、古賀謹一郎の久敬舎に入る。そしてさらなる経世済民の学を修めるため、備中松山藩の山田方谷の教えを請いに西国遊学の旅に出る。初めこそ、農民出身の山田を「安五郎」と通称で手紙にしたためるなどの尊大な態度に出ていた河井継之助も山田の言行が一致した振る舞いと彼が進めた藩政改革の成果を見て、すぐに態度を改めて深く心酔するようになる。山田の許で修養に励む間、佐賀、長崎、熊本も訪れ、知見を広める。翌年3月、松山を去って江戸へ戻り、しばらく横浜に滞在した後、長岡へ帰郷した。山田方谷に譲ってもらった王文成公全集に書いてもらった忠告を、結局守れなかった。